【トルコ・歴史】オスマン帝国歴代君主まとめ

オスマン帝国の君主号は複雑な中東の歴史を表すように多岐にわたる
最も有名なのはスルタンであるがこれは君主以外の王族や高貴な人物も使用した
オスマン領内の至高の存在(皇帝)であることを示す場合はパーディシャーを使ったが
ペルシア語起源の為か公文書には出てくるものの碑文や名分にはあまり使われなかった
現在のトルコ語のwikipediaではパーディシャーがページ名に使われている
トルコという要素の強調やモンゴル、ティムールへの対抗としてハンを称したり
ローマの後継者やアレクサンドロス、カエサルに値する称号を名乗ることもあった
イスラム世界の覇権を握りだすとイスラム世界最上級の称号カリフを自称しだすが
対外的に大きく喧伝しはじめたのは危機に陥った末期からである(スルタン=カリフ制)

※ユリウス暦だと確かなものはグレゴリオ暦(現行暦)に換算しますが
参考元には基本暦法が明記されてないため多くは参考元のまま記載しています

スレイマン・シャー
イランにいたとされる伝説的なオスマン1世の祖父
後世に創作された存在という説が有力
ギュンドゥズ・アルプの祖父ミル・スレイマン・アルプと
混同されたという説がある

ギュンドゥズ・アルプ
実際のオスマン1世の祖父と考えられる人物
オスマン1世の鋳造した貨幣に
「オスマン・ビン・エルトゥールル・ビン・ギュンドゥズ・アルプ」
(ギュンドゥズ・アルプの子のエルトゥールルの子のオスマン)
と書かれている

エルトゥールル
出生 不明(1190年代?)
死去 1280年頃(1281年?)
オスマン1世の父で13世紀後半にアナトリア西北部のソユトを支配したとされる
息子のオスマン1世の鋳造した貨幣や
孫のオルハンのワクフ寄進状に名前が記されていることから
実在していたと考えられている

初代
オスマン1世
   1299年?
在位 |(約27年間)[41歳頃?~68歳頃?]
   1326年(もしくは1324年)
出生 不明(1258年?)
死去 1326年
オスマン帝国の始祖とされる人物
ルーム・セルジューク朝とビザンツ帝国が衰退する中で行き場を失った
ガーズィー(イスラム教戦士)とアクリタイ(キリスト教戦士)が
共に集う習合的な略奪集団を率いていたと考えられる

2代
オルハン
   1326年(もしくは1324年)
在位 |(約34年間)[45歳頃~80歳頃]
   1360年頃
出生 1285年頃(1281年もしくは1288年)
死去 1360年頃(1359年から1362年の間)
初代オスマン1世の子
先代の略奪集団を君侯国(ベイリク)へと実態を変えていったオスマン帝国の実質的な祖
ビザンツ帝国の都市ブルサを攻略しアナトリア西北部一帯を固めバルカン半島に進出した
年長で実質的な皇太子だった王子スレイマンに先立たれる
後世の記述は王子スレイマンの死からムラト1世の治世に飛んでおり
オルハン死去の正確な時期は分からない

3代
ムラト1世
   1362年頃
在位 |(約27年間)[36歳頃~62歳]
   1389年06/15
出生 1326年06/29(もしくは1319年)
死去 1389年06/15
2代オルハンの子
ルーム・セルジューク朝崩壊後アナトリア各地で成立していた諸君侯国には
内紛に介入するなど武力を伴わない形で臣従させていき
最有力のカラマン侯国とは婚姻関係を結んでバルカン半島の征服に注力した
その結果バルカンに大きな勢力を持つことで他の諸君侯国とは異なる性格を手にする
この頃創設された元キリスト教徒の奴隷の常備歩兵イェニチェリはその象徴的な制度
抵抗を続けるセルビアとの戦いの最中にセルビア貴族に暗殺される

4代
バヤズィト1世
   1389年06/16
在位 |(約13年間)[29歳頃~42歳頃]
   1402年07/20
出生 1360年
死去 1403年03/08(もしくは03/09)
3代ムラト1世の子
トルコ系の諸君侯国を征服し南東部を除きアナトリア統一を果たした
その電撃的な征服活動から稲妻王(ユルドゥルム)と呼ばれた
イル・ハン朝の滅亡後イラン地域で勢力を広げたティムールと
東アナトリアを巡り1402年アンカラの戦いに臨み敗北し捕虜となった
ティムールは征服された諸君侯国を復活させ間接的にアナトリアを支配
バヤズィト1世の王子たちは各地で別々にティムールに服属した

5代
メフメト1世
   1413年07/10
在位 |(約8年間)[24歳頃~32歳頃]
   1421年05/26
出生 1389年
死去 1421年05/26
4代バヤズィト1世の子
バヤズィト1世の王子達が争った空位時代を制し即位
即位後もティムールに囚われていたムスタファを名乗る人物が
オスマン君主位を要求して反乱を起こす(偽ムスタファの乱)
メフメト1世はこれを鎮められないまま死去した

6代(1回目)
ムラト2世
   1421年05/26
在位 |(約23年間)[16歳~40歳]
   1444年 8月
出生 1404年06/16
死去 1451年02/03
5代メフメト1世の子
相次ぐ内紛を鎮めデヴシルメ制やティマール制など支配の強化に尽力
また王位継承を円滑にするためか王子メフメトに譲位した

7代(1回目)
メフメト2世
   1444年 8月
在位 |(約2年間)[12歳~14歳]
   1446年 9月
出生 1432年03/30
死去 1481年05/03
6代ムラト2世の子
ムラト2世に譲位され即位するが近隣国の侵攻や反乱が相次ぎ
若いメフメト2世では対処できないと大宰相の要請でムラト2世が復位する

6代(復位)
ムラト2世
   1446年 9月
在位 |(約4年間)[42歳~46歳]
   1451年02/03
出生 1404年06/16
死去 1451年02/03
近隣国の侵攻や反乱を鎮め復位しメフメト2世の成長を待った

7代(復位)
メフメト2世
   1451年02/03
在位 |(約30年間)[18歳~49歳]
   1481年05/03
出生 1432年03/30
死去 1481年05/03
ムラト2世の死後復位
即位の際幼い弟アフメト処刑し兄弟殺しの慣習がはじまる
1453年コンスタンティノポリスを攻略しビザンツ帝国を滅亡させた
すぐにコンスタンティノポリスに遷都し帝都イスタンブルへと変えていく
バルカンとアナトリアを統一し、黒海沿岸を制覇した
これらの功績から征服王(ファーティフ)と呼ばれる

8代
バヤズィト2世
   1481年05/22
在位 |(約31年間)[33歳~64歳]
   1512年04/24
出生 1447年12/03
死去 1512年05/26
7代メフメト2世の子
大きな遠征をせず文化政策に尽力しオスマン帝国の歴史記述が本格化する
信心深くサファヴィー教団と関係の深い教団に傾倒し聖者王(ヴェリー)と呼ばれた
イランで新興されたサファヴィー朝への対策の齟齬から王子セリムが反乱を起こす
イェニチェリはセリムを支持し退位させられ隠遁先へ赴く途中で急死した

9代
セリム1世
   1512年04/24
在位 |(約8年間)[41歳~49歳]
   1520年09/22
出生 1470年10/10
死去 1520年09/22
8代バヤズィト2世の子
セリム1世はサファヴィー朝を攻撃し勝利、アナトリアからその影響を排除した
さらにマムルーク朝を征服しメッカ・メディナを手にし名実ともにイスラムの盟主となる
この際アッバース朝の末裔からカリフ位を禅譲されたという伝説があるが
それが主張されるようになるのは18世紀後半になってからである(スルタン=カリフ制)
その征服活動と親族や臣下にも容赦しない統治から冷酷王(ヤヴズ)と呼ばれた

10代
スレイマン1世
   1520年09/30
在位 |(約46年間)[25歳~71歳]
   1566年09/07
出生 1494年11/06
死去 1566年09/07
9代セリム1世の子
オスマン帝国を象徴する人物で軍事的側面での黄金時代を築き上げた
第1次ウィーン包囲など数多くのヨーロッパ遠征を行ったことで
西欧諸国からは壮麗王(マグニフィセント)と呼ばれることとなった
またイスラム法の整備などによって支配体制を確立させたことで
イスラム世界では立法王(カーヌーニー)の異名を取る

11代
セリム2世
   1566年 9月
在位 |(約8年間)[42歳~50歳]
   1574年12/15
出生 1524年05/28
死去 1574年12/15
10代スレイマン1世の子
先代からの大宰相ソコッル・メフメト・パシャが活躍し
はじめて親征しなかったこともあり後世暗君と目され酔漢王(サルホシュ)と呼ばれた
1571年レパントの海戦でカトリック連合軍に敗北するが帝国は安定化していった

12代
ムラト3世
   1574年12/22
在位 |(約20年間)[28歳~48歳]
   1595年01/16
出生 1546年07/04
死去 1595年01/16
11代セリム2世の子
大宰相ソコッルは暗殺され大宰相の権力は一時的に抑制された
一方で宮廷の権力構造は複雑化し君主も絶対的な力は持てなくなっていった
またティマール制が縮小されイェニチェリの増員と徴税請負制が普及
権力構造も社会構造も分権的・党派的で複雑なものになっていった

13代
メフメト3世
   1595年01/16
在位 |(約9年間)[28歳~37歳]
   1603年12/21
出生 1566年05/26
死去 1603年12/21
12代ムラト3世の子
即位の際19人の幼い弟が処刑され世論を刺激し兄弟殺しの慣習が弱まる一因となった
大宰相・イスラム長老間で軍人を巻き込み争いが起こり王子マフムトが連座し処刑された

14代
アフメト1世
   1603年12/21
在位 |(約15年間)[13歳~27歳]
   1617年11/22
出生 1590年04/18
死去 1617年11/22
13代メフメト2世の子
先代での兄弟殺しの不評と若い君主の後継者の不在、そしてイスラム法との齟齬から
兄弟殺しの慣習は見送られ弟ムスタファは処刑されず王位継承システムは変容した
兄弟殺しに代わって兄弟を王宮の奥に隔離する鳥籠(カフェス)制度がはじまる

15代(1回目)
ムスタファ1世
   1617年11/22
在位 |(約3ヶ月)[26歳頃]
   1618年02/26
出生 1591年
死去 1639年01/20
13代メフメト2世の子で14代アフメト1世の弟
まだ幼いアフメト1世の王子オスマンの中継ぎとして即位するが精神的に耐えられず退位

16代
オスマン2世
   1618年02/26
在位 |(約4年間)[13歳~17歳]
   1622年05/19
出生 1604年11/03
死去 1622年05/20
14代アフメト1世の子で15代ムスタファ1世の甥
若いながらも意欲的でポーランド遠征を敢行するが失敗 若人王(ゲンチ)
増員され軍事に関わらない者の増えたイェニチェリの綱紀粛正を試み不興を買う
イェニチェリに代わる新軍団を創設するという噂が流れ反乱を起こされ殺害される
イェニチェリは都市の中間団体となっており王権の濫用に対する社会の抑制を担った

15代(復位)
ムスタファ1世
   1622年05/20
在位 |(約1年間)[31歳頃~32歳頃]
   1623年09/10
出生 1591年
死去 1639年01/20
オスマン2世が反乱によって殺害される混乱の中で再度中継ぎとして即位する
オスマン2世の復讐として地方総督が反乱を起こす事態によって再び退位させられる

17代
ムラト4世
   1623年09/10
在位 |(約16年間)[11歳~27歳]
   1640年02/08
出生 1612年07/27
死去 1640年02/08
14代アフメト1世の子で16代オスマン2世の弟
マドラサ(イスラム学院)が急増しカドュザーデ派をはじめイスラム思想が発展する

18代
イブラヒム
   1640年02/09
在位 |(約8年間)[24歳~32歳]
   1648年08/08
出生 1615年11/05
死去 1648年08/18
14代アフメト1世の子で16代オスマン2世、17代ムラト4世の弟
ムラト4世が2人の兄を処刑した影響で精神に支障をきたした説がある 狂王(デリ)
クレタ島遠征に対しヴェネツィアがダーダネルス海峡封鎖を行ったことで大混乱になり
イェニチェリが反乱を起こして王子メフメトに忠誠を誓い退位させられ後に殺害された

19代
メフメト4世
   1648年08/08
在位 |(約39年間)[6歳~45歳]
   1687年11/08
出生 1642年01/02
死去 1693年01/06
18代イブラヒムの子
キョプリュリュ家の繁栄と大宰相時代がはじまる
メフメト4世はイスタンブルから離れエディルネで狩りに没頭した 狩人王(アヴジュ)
第2次ウィーン包囲は失敗し大トルコ戦争では長く苦戦を強いられた
1687年モハーチの戦いでの敗北から反乱が起こり責任を取る形で退位した

20代
スレイマン2世
   1687年11/08
在位 |(約4年間)[45歳~49歳]
   1691年06/22
出生 1642年04/15
死去 1691年06/22
18代イブラヒムの子で19代メフメト4世の弟
キョプリュリュ家の大宰相を使い賄賂や暴虐の粛清に乗り出すが病床につき亡くなった

21代
アフメト2世
   1691年06/22
在位 |(約4年間)[48歳~51歳]
   1695年02/06
出生 1643年02/25
死去 1695年02/06
18代イブラヒムの子で19代メフメト4世、20代スレイマン2世の弟
1691年大トルコ戦争で大宰相が敗死し和平を探り始める

22代
ムスタファ2世
   1695年02/06
在位 |(約8年間)[31歳~39歳]
   1703年08/22
出生 1664年02/06
死去 1703年12/29
19代メフメト4世の子で21代アフメト2世の甥
先代の和平の方針を転換し大トルコ戦争での劣勢を挽回しようと奮戦
しかしオーストリアの名将オイゲンに壊滅的な敗北を喫しカルロヴィッツ条約を締結
アンカラの戦い以来の大幅な領土減少によって戦争だけでなく外交の重要性が高まった
長期戦争の戦費を集めるための新税と長期にわたるエディルネの拠点化は
帝都イスタンブルの人々の不満を高め大規模な騒乱が発生
ムスタファ2世の退位と師事するイスラム長老の解任が行われた(エディルネ事件

23代
アフメト3世
   1703年08/22
在位 |(約27年間)[29歳~56歳]
   1730年09/30
出生 1673年12/30
死去 1736年07/01
19代メフメト4世の子で22代ムスタファ2世の弟
西欧文化への関心が高まり活版印刷をはじめとする技術が導入された
都市の消費文化が円熟し文芸が花開いた(チューリップ時代
サファヴィー朝が衰退するイランへの介入を続けていたが失敗し
政権への不満が反乱となって現れアフメト3世の退位と大宰相解任に至る

24代
マフムト1世
   1730年10/02
在位 |(約23年間)[34歳~57歳]
   1753年12/13
出生 1696年08/02
死去 1753年12/13
22代ムスタファ2世の子で23代アフメト3世の甥
叔父の西欧化政策を引き継ぎ軍事改革に乗り出しいくつかの戦役で強勢を取り戻す
その後は安定した情勢が続きチューリップ時代と同様都市文化が栄える

25代
オスマン3世
   1754年12/13
在位 |(約3年間)[55歳~58歳]
   1757年10/30
出生 1699年01/02
死去 1757年10/30
22代ムスタファ2世の子で24代マフムト1世の弟
社会の規律を取り締まる反動的な政策に乗り出すが効果はあまりなかった
都市文化と共に経済は発展し続けていたが経済活動の中心はキリスト教徒だった

26代
ムスタファ3世
   1757年10/30
在位 |(約16年間)[40歳~56歳]
   1774年01/21
出生 1717年01/28
死去 1774年01/21
23代アフメト3世の子で25代オスマン3世の従弟
チューリップ時代以来の文化的繁栄を享受していたが
1768年に露土戦争が勃発、ロシアに大敗北を喫する中で死去した

27代
アブデュルハミト1世
   1774年01/21
在位 |(約15年間)[48歳~64歳]
   1789年04/07
出生 1725年03/20
死去 1789年04/07
23代アフメト3世の子で26代ムスタファ3世の弟
即位直後露土戦争は終結しキュチュク・カイナルジャ条約が締結される
次第にヨーロッパ諸国に劣勢に立たされる中で徴税請負制に終身制が導入
この結果地方にアーヤーンと呼ばれる在地有力者勢力が形成されていった
1787年には再び露土戦争が勃発しそのさなか死去した

28代
セリム3世
   1789年04/07
在位 |(約18年間)[27歳~45歳]
   1807年05/29
出生 1761年12/24
死去 1808年07/28
26代ムスタファ3世の子で27代アブデュルハミト1世の甥
ヨーロッパ諸国に対する軍事的劣勢を打破すべくニザーム・ジェディード改革に着手
しかしイェニチェリやアーヤーンはこの改革に反発し抵抗しはじめた
これに加えフランス革命によるヨーロッパの争乱も合わさって大混乱に陥った
反改革派によってセリム3世は退位に追い込まれていった
後にアレムダールの反乱によるセリム3世の復位を恐れたムスタファ4世に殺害された

29代
ムスタファ4世
  1807年05/29
在位 |(約1年間)[27歳~28歳]
   1808年07/28
出生 1779年09/08
死去 1808年11/17
27代アブデュルハミト1世の子で28代セリム3世の従弟
ニザーム・ジェディード改革を支持するアーヤーン、アレムダールが反乱を起こし
イスタンブルに入城、セリム3世と弟マフムトを殺し唯一の王族男子になれば
退位させられないと目論むがマフムトは難を逃れアレムダールによって退位させられた
後にマフムト2世によって処刑された

30代
マフムト2世
   1808年07/28
在位 |(約31年間)[23歳~53歳]
   1839年07/01
出生 1785年07/20
死去 1839年07/01
27代アブデュルハミト1世の子で29代ムスタファ4世の弟
アレムダールの支持の元即位したがアレムダールはイェニチェリに襲われ死去した
強力なアーヤーンを使って弱小アーヤーンを排除しバルカン・アナトリア支配を再確立した
一方で強力なアーヤーンには世襲などが許されエジプトのムハンマド・アリー等が台頭
1826年新式軍団を創設 イェニチェリは反乱を起こしたがすぐさま鎮圧され廃止された
セリム3世が挫折した近代化改革を軌道に乗せ一部からは大王(ビュユク)と呼ばれるが
西欧化に大きく舵を切ったことで異教徒の帝王という陰口も叩かれた

31代
アブデュルメジト1世
   1839年07/02
在位 |(約22年間)[16歳~38歳]
   1861年06/25
出生 1823年04/25(もしくは04/23)
死去 1861年06/25
30代マフムト2世の子
啓蒙専制君主的だった父に対し父の残した官僚たちに政治の主導権を委ねた
即位直後ギュルハネ勅令を出しタンズィマート改革を推進した
クリミア戦争における英仏の要求とタンズィマート改革の理念から
ジズヤの廃止など宗教の平等化が進められオスマン主義がはじまる

32代
アブデュルアズィズ
   1861年06/25
在位 |(約15年間)[31歳~46歳]
   1876年05/30
出生 1830年02/08
死去 1876年06/04
30代マフムト2世の子でアブデュルメジト1世の弟
マフムト2世時代に鳥籠制度は廃止され自由を享受して育った
フランス万博を機にヨーロッパ諸国を巡り遠征以外で西欧を訪れた最初の君主となった
強権的な改革を目指し立憲政が叫ばれだした世論を弾圧したことで逆に改革が停滞した
クリミア戦争以降外債に頼るようになった財政は破綻し1875年債務不履行に陥った
危機的な状況の中で学生騒乱が起こり将校のクーデターによって退位させられ変死した
イスラムの教義で禁じられる自死としてスキャンダルになったが公式には暗殺とされる

33代
ムラト5世
   1876年05/30
在位 |(約3ヶ月)[35歳]
   1876年08/31
出生 1840年09/21
死去 1904年08/29
31代アブデュルメジト1世の子で32代アブデュルアズィズの甥
アブデュルアズィズ時代厳しい監視下に置かれ精神に異常をきたしすぐに退位した

34代
アブデュルハミト2世
   1876年08/31
在位 |(約33年間)[33歳~66歳]
   1909年04/27
出生 1842年09/21
死去 1918年02/10
31代アブデュルメジト1世の子で33代ムラト5世の弟
オスマン帝国憲法(ミドハト憲法)が発布され第一次立憲政がはじまった
ロシアとの戦争に対し結ばれたサン・ステファノ条約とベルリン条約でバルカン権益を
多く失い社会不安が増大する危機の中で憲法の非常大権を行使し立憲政は停止される
1878年以降アブデュルハミト2世による専制的な上からの改革が行われる
流通や教育が発展するが専制的な政治に対し反体制運動が次第に活発になっていく
1908年青年トルコ革命によって憲法と議会が再開され第二次立憲政がはじまった
選挙では革命を支持する統一派が多く議席を獲得するがこれに対し反統一派が蜂起する
この蜂起は鎮圧されこれに関わったとしてアブデュルハミト2世は退位することになった

35代
メフメト5世(レシャト)
   1909年04/27
在位 |(約9年間)[64歳~73歳]
   1918年07/03
出生 1844年11/02
死去 1918年07/03
31代アブデュルメジト1世の子で34代アブデュルハミト2世の弟
元の名はレシャトだったが即位に際してメフメトと名乗ることとなった
再開された立憲政は流動的で政治的に不安定で対外危機がこれに拍車をかけた
バルカン戦争後のブカレスト条約でヨーロッパの領土をほとんど失った
続く第一次世界大戦でも同盟国側につき敗北し統一派の権威は失墜した
1918年大戦の講和を待たずしてメフメト5世は亡くなった

36代
メフメト6世(ヴァヒデッティン)
   1918年07/03
在位 |(約4年間)[57歳~61歳]
   1922年11/01
出生 1861年01/14
死去 1926年05/16
31代アブデュルメジト1世の子で35代メフメト5世の弟
メフメト6世は統一派の専横に敵意を抱き君主による専制を取り戻そうとした
イギリスの援助を背景とするメフメト6世の強権は「イギリスのカリフ」と蔑まれ
統一派が新たな指導者と仰いだ軍人ムスタファ・ケマルによる国民闘争がはじまった
ケマルはアンカラで大国民議会を招集しアンカラ政府とイスタンブル政府が対立する
ビザンツ帝国再興を目指すギリシアに勝利したアンカラ政府はスルタン位を廃止した
大国民議会で「祖国の裏切者」と決議されたメフメト6世はイギリスに亡命した

(37代)※スルタンには即位せずカリフの称号のみ
アブデュルメジト2世(エフェンディ)
   1922年11/19
在位 |(約1年間)[54歳~55歳]
   1924年03/03
出生 1868年05/29
死去 1944年08/23
32代アブデュルアズィズの子で36代メフメト6世の従弟
第二次立憲政時代「民主制のプリンス」と呼ばれアンカラ政府にも協力的だった
議会投票によってカリフに選出されるが1923年共和制が宣言されトルコ共和国が成立
同年カリフ位の廃止とオスマン王家の国外退去も決議され
アブデュルメジト・エフェンディはスイス、後にフランスに渡った
オスマン家の男子は1974年までトルコへの入国を許されなかった