【日本・歴史】江戸幕府歴代征夷大将軍まとめ

※季節性を重視しグレゴリオ暦(現行暦)換算に統一しています

松平清康[まつだいら きよやす]
出生 1511年10/08(永正8年09/07)
死去 1536年01/08(天文4年12/05)
安祥松平家7代当主
家康の祖父
三河国における松平氏の覇権を確立し戦国大名としての礎を築いた

松平広忠(松平廣忠)[まつだいら ひろただ]
出生 1526年6月19日(大永6年4月29日)
死去 1549年4月13日(天文18年3月6日)
安祥松平家8代当主
家康の父
父の死後織田と今川の間で苦しめられ幼い家康を人質に出しその後若くして亡くなった

初代
徳川家康(德川家康)[とくがわ いえやす]
   1603年03/24(慶長8年2月12日)
在任 |(約2年間)[60歳~62歳]
   1605年06/02(慶長10年4月16日)
出生 1543年02/10(天文11年12月26日)
死去 1616年06/01(元和2年4月17日)
安祥松平家9代当主
徳川家初代当主(神君)
桶狭間の戦いの後今川から独立し織田信長と同盟を結び戦国大名として成長
織田信長、豊臣秀吉といった天下人と協力・競争しながら力を蓄え続け
秀吉の死後天下の実権を握り1603年足利氏に代わり征夷大将軍に就任する
やがて息子秀忠に将軍職を譲り大御所として江戸幕府の体制確立に生涯を費やした

2代
徳川秀忠(德川秀忠)[とくがわ ひでただ]
   1605年06/02(慶長10年4月16日)
在任 |(約18年間)[26歳~44歳]
   1623年08/23(元和9年7月27日)
出生 1579年05/12(天正7年4月7日)
死去 1632年03/14(寛永9年1月24日)
初代家康の子
関ヶ原の戦いや大坂の陣ではしばしば家康に叱責され戦才は疑われているものの
政治力は父家康に勝るほどで家康の築いた江戸幕府をより盤石なものへと固めていった
武家諸法度に則って改易を数多く行う武断政治によって大名への統制を強化していった

3代
徳川家光(德川家光)[とくがわ いえみつ]
   1623年08/23(元和9年7月27日)
在任 |(約28年間)[19歳~46歳]
   1651年06/08(慶安4年4月20日)
出生 1604年08/12(慶長9年7月17日)
死去 1651年06/08(慶安4年4月20日)
2代秀忠の子
個人的な資質は疑問視されるが人物眼は確かで特に知恵伊豆と呼ばれた松平信綱が活躍
父の代までに諸大名の統制は完成形に近づきその成文化と幕府官僚制の確立に尽力した
参勤交代制・老中制が整備され島原の乱後は鎖国体制に至り日本人の交易活動は縮小した

4代
徳川家綱(德川家綱)[とくがわ いえつな]
   1651年09/10(慶安4年7月26日)
在任 |(約29年間)[10歳~38歳]
   1680年06/04(延宝8年5月8日)
出生 1641年09/07(寛永18年8月3日)
死去 1680年06/04(延宝8年5月8日)
3代家光の子
若くして将軍となり成人後も保科正之や酒井忠清ら大老に政治を委ねた
半ば弾圧的な武断政治から将軍と大名の主従関係を強調する文治政治に転換していった
実子がいなかったため弟の綱吉が将軍を引き継いだ

5代
徳川綱吉(德川綱吉)[とくがわ つなよし]
   1680年08/12(延宝8年7月18日)
在任 |(約28年間)[34歳~62歳]
   1709年02/19(宝永6年1月10日)
出生 1646年02/23(正保3年1月8日)
死去 1709年02/19(宝永6年1月10日)
館林徳川家初代当主
3代家光の子
4代家綱の弟
儒教と仏教に通じた英明な人物と評判だったが館林藩主として独自の政治基盤を持ち
幕閣との不和が生じて幕政は混乱していき生類憐みの令は綱吉の意図から外れ暴走した
将軍と幕閣を仲介する役職として側用人が置かれたが政権内の不一致は改善しなかった
経済的には荻原重秀の貨幣改鋳の効果もあって元禄バブルが起こり元禄文化が花開いた

徳川綱重(德川綱重)[とくがわ つなしげ]
出生 1644年06/28(正保元年5月24日)
死去 1678年10/29(延宝6年9月14日)
贈征夷大将軍 1710年9月16日(宝永7年8月23日)追贈
甲府徳川家初代当主
3代家光の子
4代家綱の弟
5代綱吉の兄
6代家宣の実父
綱吉と共に家綱の後継候補として名が挙がったが家綱よりも先に死去した
綱重の甲府徳川家と綱吉の館林徳川家は御両典と呼ばれた

6代
徳川家宣(德川家宣)[とくがわ いえのぶ]
   1709年05/11(宝永6年4月2日)
在任 |(約3年間)[46歳~50歳]
   1712年11/12(正徳2年10月14日)
出生 1662年06/11(寛文2年4月25日)
死去 1712年11/12(正徳2年10月14日)
甲府徳川家2代当主
3代家光の孫
5代綱吉の甥、養子
甲府藩主時代叔父の綱吉からは疎んじられ幕府の御用学者林家の門弟を迎えられず
儒学者木下順庵の門弟だった新井白石を登用し将軍になっても重用し続けた
新井白石は身分こそ旗本止まりだったものの正徳の治を主導し生類憐みの令を廃止した

7代
徳川家継(德川家継)[とくがわ いえつぐ]
   1713年03/29(正徳3年3月4日)
在任 |(約3年間)[3歳~6歳]
   1716年06/19(正徳6年4月30日)
出生 1709年08/08(宝永6年7月3日)
死去 1716年06/19(正徳6年4月30日)
6代家宣の子
幼くして将軍となり幼いまま亡くなった
家宣と新井白石を取り持っていた側用人間部詮房は大奥の出入りも許され
大奥最大のスキャンダルとなった絵島・生島事件も絡み後世良からぬ噂が立った
家継が乳母に対し「まるで間部詮房が将軍のようだ」と語ったという逸話も残る

徳川光貞(德川光貞)[とくがわ みつさだ]
出生 1644年06/28(正保元年5月24日)
死去 1678年10/29(延宝6年9月14日)
御三家・紀州徳川家2代当主
初代家康の孫
8代吉宗の実父

8代
徳川吉宗(德川吉宗)[とくがわ よしむね]
   1716年09/03(享保元年7月18日)
在任 |(約29年間)[31歳~60歳]
   1745年10/20(延享2年9月25日)
出生 1684年11/27(貞享元年10月21日)
死去 1751年07/12(寛延4年6月20日)
御三家・紀州徳川家5代当主
初代家康の曽孫
7代家継の養子
事実上の紀州藩の分藩だった葛野藩の藩主となりその後紀州藩を継ぐことになった
家康との血縁の近さと大奥、反間部・白石派の幕臣の支持によって徳川宗家を継いだ
この頃金銀産出量の減少や人口増加の停滞から経済と財政が悪化していっていた
吉宗は経済、財政、税制、職制、学問、司法、インフラと多岐に渡る享保の改革に着手
米相場を安定させ米将軍と呼ばれ経済財政は当初回復したが米本位制は限界が近かった
それでも幕政と社会情勢はこれ以降安定性を増し江戸幕府の中興の祖とされている

9代
徳川家重(德川家重)[とくがわ いえしげ]
   1745年10/31(延享2年10月7日)
在任 |(約15年間)[33歳~48歳]
   1760年06/25(宝暦10年5月13日)
出生 1712年01/28(正徳元年12月21日)
死去 1761年07/13(宝暦11年6月12日)
8代吉宗の子
言語障害があったとされるが嫡男による相続に拘った吉宗から将軍を譲られる
知能障害があった説と知能には問題なかった説があるがいずれにせよ
家重の言いたいことをよく理解できるのは側用人の大岡忠光くらいだった
この時代に起こった郡上一揆は一地方の一揆ながら大名や幕閣の処分までに至り
さらにこの一揆への対応にあたった田沼意次が政治的に飛躍するきっかけとなった

10代
徳川家治(德川家治)[とくがわ いえはる]
   1760年08/12(宝暦10年7月2日)
在任 |(約26年間)[23歳~49歳]
   1786年09/29(天明6年9月8日)
出生 1737年06/20(元文2年5月22日)
死去 1786年09/17(天明6年8月25日)
9代家重の子
父の代から台頭した田沼意次が政治を主導し賄賂が横行する田沼時代が到来した
近年田沼意次は先進的な経済政策を志向していたと言われてきているが
一方で田沼の政策は享保の改革の延長線上で一部は後の寛政の改革にも取り入れられた
長年にわたる田沼の執政は後継問題、天災問題が絡む中で批判され田沼は失脚した

徳川治済(德川治濟)[とくがわ はるさだ]
出生 1751年12/23(宝暦元年11月6日)
死去 1827年03/17(文政10年2月20日)
御三卿・清水徳川家2代当主
8代吉宗の孫
11代家斉の実父
自分の子が将軍になるのを望み田沼意次と懇意にするがやがて田沼排斥の陰謀を巡らす
松平定信の将軍候補除外や家治の子家基が急死したことに関しても黒幕と噂される
将軍家斉の父として大御所待遇を得ようとするも失敗したが死ぬまで幕政を裏で操った

11代
徳川家斉(德川家齊)[とくがわ いえなり]
   1787年04/23(天明7年3月6日)
在任 |(約50年間)[13歳~63歳]
   1837年05/06(天保8年4月2日)
出生 1773年11/18(安永2年10月5日)
死去 1841年02/27(天保12年閏1月7日)
8代吉宗の曽孫
10代家治の養子
田沼排斥で治済と協力した松平定信が将軍補佐となり寛政の改革を行う
治済・家斉親子と定信は次第に対立し定信は失脚するが定信派の寛政の遺老が残った
家斉は少しずつ寛政の遺老から実権を奪っていき田沼時代以上の賄賂政治に向かった
将軍退任後も大御所として君臨しつづけた 家斉の治世中に化政文化が花開いた

12代
徳川家慶(德川家慶)[とくがわ いえよし]
   1837年09/04(天保8年8月5日)
在任 |(約16年間)[44歳~60歳]
   1853年07/27(嘉永6年6月22日)
出生 1793年06/22(寛政5年5月14日)
死去 1853年07/27(嘉永6年6月22日)
11代家斉の子
趣味に没頭し自ら政治を行うことはほぼなかったが人材と時勢を見抜く判断力に優れた
水野忠邦の天保の改革が数年で頓挫すると満25歳と若い阿部正弘を老中首座に抜擢した
マシュー・ペリーによる浦賀沖への黒船来航に幕府が対応を迫られる中で亡くなった

13代
徳川家定(德川家定)[とくがわ いえさだ]
   1853年11/23(嘉永6年10月23日)
在任 |(約5年間)[29歳~34歳]
   1858年08/14(安政5年7月6日)
出生 1824年05/06(文政7年4月8日)
死去 1858年08/14(安政5年7月6日)
12代家慶の子
病弱かつ癇癪持ちで脳性麻痺だったという説もあるが時として威厳ある態度を見せた
幕末の動乱がはじまる中で阿部正弘は諸侯を幕政に参加させる安政の改革を行った
実子がおらず難しい政局から南紀派一橋派の激しい後継者争いが巻き起こった
南紀派の井伊直弼が大老に就任し阿部ら一橋派は安政の大獄で弾圧されていった

徳川斉順(德川齊順)[とくがわ なりゆき]
出生 1801年10/16(享和元年9月9日)
死去 1846年06/01(弘化3年5月8日)
御三卿・清水徳川家3代当主
御三家・紀州徳川家11代当主
11代家斉の子
14代家茂の実父

14代
徳川家茂(德川家茂)[とくがわ いえもち]
   1858年11/30(安政5年10月25日)
在任 |(約8年間)[12歳~20歳]
   1866年08/29(慶応2年7月20日)
出生 1846年07/17(弘化3年閏5月24日)
死去 1866年08/29(慶応2年07月20日)
御三家・紀州徳川家13代当主
11代家斉の孫
13代家定の養子
大老井伊直弼ら南紀派の支持で将軍になるがまもなく桜田門外の変で井伊は暗殺される
1862年阿部に並ぶ一橋派だった島津斉彬の弟島津久光が朝廷の勅使随行として献策
息子は薩摩藩主ではあるものの藩主経験すらない久光が主導する文久の改革が行われる
229年ぶりとなる将軍の上洛や有力諸侯による参預会議が開かれるなど公武合体が進んだ

徳川斉昭(德川齊昭)[とくがわ なりあき]
出生 1800年04/04(寛政12年3月11日)
死去 1860年09/29(万延元年8月15日)
御三家・水戸徳川家9代当主
15代慶喜の実父
安政の改革以降諸侯に幕政への意見が認められる中で多くの献策を主張した
水戸の幕政改革を主導し海防の強化を主張したことから烈公の諡号がつけられた

15代
徳川慶喜(德川慶喜)[とくがわ よしのぶ]
   1867年01/10(慶応2年12月5日)
在任 |(約1年間)[29歳~30歳]
   1868年01/03(慶応3年12月09日)
出生 1837年10/28(天保8年09月29日)
死去 1913年11/22(大正2年)
御三卿・一橋徳川家9代当主
初代家康の10世孫
14代家茂の養子
幼少からの聡明さを買われ一橋派の将軍後継候補として台頭する
文久の改革で将軍後見職につき京都における幕府側の実権を握った
薩長同盟によって倒幕の機運が高まり先手を打って大政奉還を実施
名目上の権限を手放すことで倒幕を挫折させ実権を持ち続けようとしたものの
倒幕の意志を固めていた薩長は焦りだし逆に強硬な倒幕へと向かっていった
王政復古の大号令とそこからはじまる戊辰戦争で名実ともに幕府は消滅した

徳川慶頼(德川慶賴)[とくがわ よしより]
出生 1828年11/19(文政11年10月13日)
死去 1876年09/21(明治9年)
御三卿・田安徳川家5・8代当主
11代家斉の甥(治済の孫)
16代家達の実父

(16代)
徳川家達(德川家達)[とくがわ いえさと]
出生 1863年08/24(文久3年7月11日)
死去 1940年06/05(昭和15年)
御三卿・田安徳川家7代当主
最長の貴族院議長(1903年12/04-1933年06/09)
1914年総理大臣候補に挙げられるが辞退
8代吉宗の5世孫
11代家斉の大甥
15代慶喜の養子

(17代)
徳川家正(德川家正)[とくがわ いえまさ]
出生 1884年03/23(明治17年)
死去 1963年02/18(昭和38年)
最後の貴族院議長(1946年06/19-1947年05/02)
17代家達の子
18代恒孝の外祖父

松平恆雄(松平恒雄)[まつだいら つねお]
出生 1877年04/17(明治10年)
死去 1949年11/14(昭和24年)
宮内大臣(1936年03/06-1945年06/04)
最初の参議院議長(1947年05/20-1949年11/14)
会津松平家9代当主松平容保の子
18代恒孝の祖父

松平一郎[まつだいら いちろう]
出生 1907年11/15(明治40年)
死去 1992年12/24(平成4年)
松平恆雄の子
18代恒孝の実父

(18代)
徳川恒孝(德川恆孝/松平恒孝)[とくがわ つねなり]
出生 1940年02/26(昭和15年)
存命
初代家康の13世孫
17代家正の養子
現徳川宗家当主